元を辿ればトリノのヴァイオリニスト~ヴィオッティとトリノ~
私がトリノに初めて訪れたきっかけは作曲家でヴァイオリニストであったヴィオッティという人の存在でした。
ヴァイオリン弾きならヴィオッティのヴァイオリン協奏曲なら知っているという人は多いと思います。
実はトリノはヴァイオリニストを数多く輩出している街なのです。
トリノに関心を持ったきっかけ
最初に書いた通り、初めてトリノに行こうと思ったきっかけはヴィオッティの存在でした。
始めてイタリアに行く事になったのは今から約6年前、大学4年生の時に大学の先生がイタリアのクレモナという街で講習会をするからという事でついて行った事が人生初のイタリア滞在でした。
この2014年の初イタリア滞在の時に時間があるならヴィオッティの少年、青年期に過ごした街であるトリノに行ってみようと思いました。
なぜヴィオッティ?トリノ?と思うかもしれませんが、この当時大学でバロックヴァイオリンを勉強していて、その時にバロックヴァイオリンの先生から貰った時代による楽器の変遷の資料に弓について書かれていたものを読み、その中に現代の弓のスタイルを完成させたと言われるトゥルテという弓製作者がヴィオッティの協力の元作り上げたという話からヴィオッティに関心を持つようになりました。
元々中学時代から年代ごとに活躍したヴァイオリニストについての本や雑誌の記事を読むのが好きで、高校時代からヴィオッティとその弟子にあたるローデやバイヨ、クロイツェル(クロイツェルに関しては弟子というより先輩後輩の様な関係だったとか)のパリ音楽院創立時の三教授に関心があり、そのうち、彼らを育てたヴィオッティという人は何者なのだろうと更に関心が広がったのもありました。
その様な回りくどい経緯なのですが、私がヴァイオリンを弾くだけでなく、ヴァイオリンというそのものの存在や演奏の歴史にも関心があったおかげで今、私はトリノにいると思っています。
勿論初めてトリノに訪れた時はイタリア語なんて全く話せない状態で行ったものなので、事前にヴィオッティに関する本(日本語)で彼がトリノのどの場所でどういう事をしていたかという事を調べてそのあたりをひたすら歩きまわる、要は聖地巡礼みたいなことをしました。
それでも当時の私にとってはトリノの街がこういう街なのかとみる事が出来ただけで楽しかったです。
ヴィオッティの師匠
ヴィオッティが産まれたのは1775年とモーツァルトと一つ違いで、丁度ヴィオッティがトリノにいた10代の頃にモーツァルトもトリノを訪れています。
特にヴィオッティとモーツァルトが会ったという確信的な記録はないのですが、モーツァルトがシステルナ家(ヴィオッティが少年期に学んだ場所でもある)を訪れている事からこの二人が出会っていた可能性も十分にあるとも考えられています。
そんなヴィオッティですが、彼の先生に当たる人はプニャーニという人です。
もしかしたら聞いた事ある名前かもしれません。
クライスラーの序奏と前奏曲のタイトルに【プニャーニの主題による】と書かれているのを見てプニャーニという名前を知った人も少なくないと思います。
実際、クライスラーの曲は全くプニャーニが作曲したメロディーでもなんでもないクライスラー自身が作った完全なオリジナルなのですが…。
そのプニャーニはヴィオッティの先生で、プニャーニもヴィオッティもテアトロ・レージョ(トリノ王立劇場)のヴァイオリン奏者でした。
現在も残っていて、私も何度かテアトロ・レージョのオーケストラで弾いています。
ヴィオッティの師匠のプニャーニは彼を連れてイタリア国外の演奏旅行もし、後にヴィオッティがフランスに身を置き、ヴェルサイユ宮殿でマリー・アントワネットに仕えたきっかけを作った人ともいえるでしょう。
そのおかげでヴィオッティはフランス革命であらぬ疑いをかけられたり、晩年は苦労が絶えなくなるのですが…。
ヴィオッティに関する街
ヴィオッティはフォンタネット・ポーという村の出身です。
ヴェルチェッリに拠点を置いているヴァイオリニストのグイード・リモンダ氏率いるカメラータ・ドゥカーレとそれに関わる財団がヴィオッティ・フェスティヴァルを運営しており、主にトリノ、ヴェルチェッリ、フォンタネット・ポー等ヴィオッティのゆかりの地と呼ばれる地域での公演が行われています。
因みにこのリモンダ氏、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲を全曲CD録音をしています。
私もこのヴィオッティ・フェスティバルにカメラータ・ドゥカーレの公演で演奏していて、リモンダ氏や財団の方と関わりがあります。
そもそも彼の存在は日本にいる時から知っていた事や、トリノに来て割とすぐに彼とコンタクトをとれる人もいたのですが他にやりたい事があって、結局リモンダ氏と実際に会ってカメラータ・ドゥカーレと関わる事になったのはほんのつい最近の話です。
というのも、私の親友であるウクライナ人のピアニストが借りているアパートの大家さんがヴィオッティ・フェスティバルの運営に関わっている人だったので、私の親友が「カメラータ・ドゥカーレはヴァイオリニストを探してるみたいだから佐和の連絡先回していい?」といったのが始まりでした。
テアトロ・レージョ(トリノ王立劇場)やヴィオッティフェスティバルにしても、トリノにいるとかなり近い存在で、近すぎるあまり歴史の重みを忘れてしまいます。
本を読んで知識を増やしている時は、劇場で働く事にすごく厳格なイメージがあったのですが、中に入ってみるとイタリア人らしくいつも楽しそうな感じです。
もしかしたらヴィオッティ達も、記録に残っている事はほんの一部で、彼らも現代のイタリア人の様に聴衆を笑顔にしたくて面白い事をしようと色々アイデアを出していたのかなと勝手に思っています。
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最後に
ヴィオッティがきっかけで来たトリノでしたが、こんなに長く関わるとは思ってもいませんでした。
そして、意外に歴史ととても近くて、これだけ長く続くイタリア音楽界のほんの一部に関われたとしたのならとても嬉しい事です。